[防災あれこれ]
◆伊勢湾台風から50年(その3)
 飛島村はかつて日本一貧しい村であった。
 1965年の一般会計は1億400万円、10年後には14倍の14億1400万円となり、2009年には79億1300万円となっている。1960年の財政力指数は0.22であったが、2006年の指数は2.78。破たんした夕張市の指数が0.23だったことを考えれば、どれぼど貧しかったかが分かる。現在、村では子どもが生まれると10万円の祝い金を、小中学校に入ると10万円の手当てを、100歳になると100万円の祝い金が支給される。村民には一週間の海外研修制度もある。村の役場職員は100人に上り、村民15人当たり一人の職員がいることになる。さらに、村役場には災害発生時には全村民が避難できる建物が建設されており、全国自治体から見学者が絶えないようである。
 伊勢湾は伊勢湾台風からの復旧、抜本的な対策工事を実施するため、343億円の補正予算が組まれることになる。復旧工事には飛島村の村民も1000人以上が協力した。村民の生活を支えるのにも復旧工事は役立ったのである。安政南海地震の津波で被災した和歌山県湯浅で、浜口梧陵が私財を投じて津波防止の堤防工事を行い、村民を村に引き止めたことが思い出される。
 愛知県知事は伊勢湾台風の直撃を受けた海岸に臨海工業地帯の建設を計画した。これにより、港湾区域を漁場とする4850余人の漁業補償交渉が伊勢湾台風の翌年(1960年)から始まった。62年には8250メートルの高潮堤防が完成したため、漁業権返上に15の漁協が補償金で生活転換を計ることに応諾止むを得ない状況となった。飛島村は349世帯がノリ養殖に従事しており、1世帯平均654万円の補償金が支払われた。68年には33万平方メートルの貯水場が完成し、行政権は飛島村に属することになった。さらに造船鉄鋼産業地も飛島村に属することになり、裕福な村へと変ぼうしていった。
 飛島村は戦前から市町村合併の俎上(そじょう)に何度も上った。村が貧しいときには、合併相手から拒否されてきたが、裕福な村になると周囲から合併を望まれた。しかし、飛島村は頑として合併を受け入れることはなかった。
 62年に完成した防潮堤は40年が経過し老朽化が進んでいる。超スーパー台風の襲来も今世紀には有り得ると考えられている。
 中日新聞が伊勢湾台風の2カ月後に発刊した「伊勢湾台風の全容」には社機「こまどり」から撮影された、ほとんど水没している飛島村の様子が載っている。渺茫(びょうぼう)たる水面が広がり、黒っぽく浮いた水面に森や林が望まれてその中に水没している家が散見される。伊勢湾台風発生から数日間の朝日、毎日、読売の各紙を見てみたが、飛島村の取材記事や写真は見当たらなかった。
 伊勢湾台風の後、各地で排水ポンプを使用しての大規模な排水作戦が展開されていた。しかし、飛島村は2カ月たっても水が引かず、ようやく最後の尾西作戦(左図)が実行され、村民は正月寸前に村に戻ることができた。
 (地域防災研究所所長:大間知倫)