[防災あれこれ]
◆続・伊勢湾台風から50年
 朝日新聞の9月22日の社説で50年前の台風が取り上げられた。また、25日の夕刊では今世紀後半には風速80メートルのスーパー台風が発生し、大きな被害を出すのではないかと予測する記事が掲載された。この中で、堤防の老朽化についても触れており、地方を中心に不備が目立つ、総点検が必要だとしている。というのも、東京湾、大阪湾、伊勢湾の海抜0メートル地帯には、400万人が暮らしており、50年前に発生した伊勢湾台風の時と違い、スーパー台風に襲われれば、被害は甚大になるだろうと警告している。
 伊勢湾台風で犠牲者が最も多かった名古屋市では、小学生が当時の小学生の作文をもとに伊勢湾台風を劇化して後世に伝えようとしていることがNHKのニュースで紹介された。
 またKTC中央出版より岡邦行著作の「伊勢湾台風―水害前線の村」という本が今年8月に出版された。これは水害前線の飛島村を題材に、そこに暮らしていた人を取り上げたノンフィクションである。台風が上陸した時、村役場、県庁、気象台、官庁の出先機関はどう対応したのか、中日新聞の取材などを紹介している。当時、中日新聞は取材現場から本社への通信手段として伝書鳩を何百羽も飼育していた。取材記者は、バスケットに伝書鳩を入れて現場に向かったという。執筆した取材記事を足に付けた鳩が迷子になったり、猛禽に襲われることも懸念して同じ取材記事を数羽の鳩に託していたのである。
 名古屋気象台では数十人の職員が勤務していた。老朽化した庁舎は、浸水や庁舎の一部が風で破壊され、職員たちはその中で任務に当たった。庁舎の発電機は、非常時に長時間の発電に対応できないと予想されていた。伊勢湾台風の前年に強力な発電機に変えていたことが、被災時に役立ったことも記述されている。
 最も多くの犠牲者を出した飛島村は、1944年の東南海地震で大被害を被っていた。戦時中、夜間に警戒警報が発令されると、名古屋市内では灯火管制により電灯を黒い布で覆い、外へ光が漏れないようにしていたのである。その上、市内の工場が襲われないように、伊勢湾に面した飛島村では、軍部からの指示により水田、畑に裸電球をともして大都市を装うことを余儀なくされていた。空襲でも多くの犠牲者が出ており、また若者が戦争に駆り出され、6軒に1軒の家の若者が亡くなった。
 53年に東海地方を直撃した台風13号を大きく上回る台風15号は『伊勢湾台風』と名付けられることになるが、台風の上陸は予想より早く、さらに満潮時と重なったため大規模な高潮被害に見舞われたのである。水害前線の村、飛島村は2カ月たっても村から水が引くことはなかった。村長は県や国会に何度も対策実行を訴えている。災害対策特別委員会議事録が同書に引用されている。第33回臨時国会で間瀬村長は、5メートルの海岸堤防の上を1・5メートルの高波が乗越えて村に進入し、住宅95戸の内65戸が流されてしまったこと、周囲の市町村からは対策工事により水が引きつつあるが、2カ月たっても飛島村からは水が引いていない現状を切々と訴えている。飛島村は日本一貧しい村であった。
(つづく)
 (地域防災研究所所長:大間知倫)
【保険毎日新聞2009年10月5日】